2025年6月21日土曜日

真理は、どこにあるのか

 先日、ある夫婦を特集したテレビ番組を見た。

奥さんは、目が見えず、耳も聞こえない。
つまり、外から入ってくる情報は、ほとんどないに等しい。
それでも、その人の言動やふるまいには、驚くほどの気高さや豊かさがあった。
むしろ、外の情報に満ちている私たちよりも、ずっと深いところに立っているように感じた。

この姿にふれて、私はふと思った。
やはり、人が学ぶうえで本当に大切なのは、外の情報量ではなく、自分の内に向き合う姿勢なのではないか――と。

そもそも、人が最初に学ぶことは「外はどうであるか」と「自分はどうであるか」という、たったふたつの軸だったはずだ。
幼い子が、親の顔色や声のトーンに反応し、「あ、これが嬉しいなんだ」「これは悲しいなんだ」と、外と内を行き来しながら、少しずつ世界を理解していく。
しかし今は、外から得た情報をどう読み解き、どれだけ知識として整理できるかに偏りすぎてはいないだろうか。
「自分はどう感じたか」「何に違和感を持ったか」といった、内側の感覚が置き去りにされているように思う。

だからこそ、世の中が行き詰まりを感じたとき、「自分自身を大切にしましょう」といったスローガンがもてはやされる。
けれどもそれは、どこか上滑りな感じがする。
壊れかけた後に慌てて唱えるような、間に合わせの言葉にも見える。

私たちは、自分に向き合うことを、いつから「特別なこと」と考えるようになってしまったのだろう。

本来、「科学」や「知識」とは、そうした自分の深淵に向き合うための方法だったはずだ。
天体の動き、生物のしくみ、数式の美しさ――
それらはみな、外の世界を通して、私たち自身を見つめなおすために編み出されてきた。
科学とは、世界を解き明かす営みであると同時に、自分の内なる秩序を再発見する営みだったのだと思う。

真理は、いつも自分の外にあるとは限らない。
むしろ、外の情報が少ないときにこそ、内なる声が澄んで聞こえてくることがある。
その静けさの中に、真理のかけらがひっそりと眠っているように思う。

その番組は以下のリンクをクリック

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時をかけるテレビ 池上彰 見えず聞こえずとも 夫婦ふたりの里山暮らし